朝、家を出るとき、私は鏡の前で笑顔を作っていた。
「今日も頑張ってこよう」
そう自分に言い聞かせて、深呼吸をしてドアを開ける。
――でも本当は、ドアを開けたくなかった。
職場に行くのが怖かった。
*
自宅の近くの支店での勤務が始まって、最初の数か月はまだ平穏だった。
あのOさんが同じ職場にいるとはいえ、最初はお互いに一定の距離を保っていたし、仕事に集中することで、自分を保っていた。
でも、いつからだろう。
Oさんの態度が徐々に変わっていったのは。
「あなたにはまだこの仕事、難しいよね?」
「ちょっと黙ってくれる?今集中してるから」
言葉の端々にトゲが混じるようになり、ちょっとした報告も「それ、前に言った?」と詰められる。
他の人がいる前で、わざと小声で文句を言われる。
聞こえるか聞こえないかの声で、「本当に使えないんだから」って。
私は笑ってやり過ごした。
笑うしかなかった。
泣いたら負けだと思っていた。
でも、声が出なくなっていった。
人前で話すと、口が震える。
言いたい言葉が喉につっかえて、うまく話せなくなった。
吃音(きつおん)だった。
電話応対が怖くなった。
上司に報告するのも、心臓がバクバクして、声がかすれてしまう。
「どうしたの?ちゃんと話して」と言われても、口が動かなかった。
それでも、Oさんは止まらなかった。
「報告もできないなんて社会人失格よ」
「電話も出れないなら帰ったら?」
誰も助けてくれなかった。
見て見ぬふりをする人ばかりだった。
私はただ、自分がダメなんだと思い込んで、
「頑張らなきゃ」と心の中で叫んでいた。
*
朝、駅に着くたびに、体が動かなくなる日が増えていった。
会社のビルが見えると、吐き気がする。
涙が出る。
でも、引き返せない。
家族のために、頑張らなきゃって思っていたから。
家に帰れば、子どもが「おかえり」と言ってくれる。
夫が「お疲れ様」と言ってくれる。
だから、私がしっかりしなきゃって思っていた。
でも――本当はもう限界だった。
*
「私、間違ってたのかな」
そんな言葉が頭の中を何度も何度もよぎる。
けれど、ここで終わらせたくなかった。
「負けたくない」
その気持ちだけで、私は次の日も笑顔を作って出かけていた。
壊れていることに、気づかないふりをして。

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