第5回:ありがとうが言いたかっただけなのに

過去の職場体験記

「ありがとう」

「お疲れ様です」

たったそれだけの言葉が、ある日突然、どうしても口に出せなくなった。

それは、私の中で何かが壊れてしまった証だったのかもしれない。

言葉を出そうとすると、喉が詰まる。声にならない。相手の目を見て「お疲れ様」と言おうとしても、息が止まってしまう。

そんな自分が信じられなかった。

「何で言えないの?普通に話せてたじゃん」

「昨日まで、ちゃんとありがとうって言えてたのに」

自分に何度も問いかけた。でも、どうしても出ない。

私は耳鼻科に行ってみた。何か喉に異常があるんじゃないか、声帯が壊れてしまったんじゃないか。そんな不安を抱えて診察を受けた。

だけど、結果は「異常なし」。

「声帯にも喉にも問題はありませんね。ストレスでしょう」

そう言われた瞬間、目の前が真っ白になった。

やっぱりストレスか…って、心のどこかで分かってた。でも、はっきりと言われると、自分が壊れてしまったようで怖かった。

それでも、私は「普通に戻りたかった」。

だから次に選んだのは、発声トレーニング。

「言えないなら、練習すればいい」って、前向きに考えようとした。

でも現実はそんなに簡単じゃなかった。

「お疲れ様」

「ありがとう」

口に出そうとしても、声が裏返ったり、息が止まったり、出そうで出ない。焦れば焦るほど、喉がギュッと締まっていく。

それでも「診断」は受けたくなかった。

心療内科のことは、何度も頭に浮かんだ。「行ったほうがいいのかもしれない」とも思った。でも、もしそこで“うつ病”や“適応障害”だと診断されたら、戻れない気がした。

会社では、「心の病」がタブーだった。

一度そうなれば、何をしても「病んでる人」として扱われてしまう。

私はまだ、「普通のふり」をしていたかった。

壊れかけた自分を、なんとか繋ぎとめていたかった。

だから病院には行けなかった。

その代わりに、他の方法で乗り越えようとした。

深呼吸、ストレッチ、呼吸法、音楽、日記…。

「ありがとう」「お疲れ様」が自然に言える自分に、また戻りたくて、できることを一つずつ試していった。

どれもすぐには効かなかったけど、それでも「何かをしている自分」が支えになった。

言えなかった言葉を、紙に書いてみたりもした。

書きながら泣いた日もある。「どうして言えないの?」って自分を責めたこともあった。

でも、ほんとはただ、

「ありがとう」

「お疲れ様」

この2つを伝えたかっただけなんだ。

誰かに感謝を伝えたくて、

誰かの頑張りを認めたくて、

でも、そのための言葉が出てこなかった。

それが、あの頃の私だった。

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